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インタビュー

光琳の覚悟、私たちの決意

人間国宝(重要無形文化財保持者) 志村ふくみさん 染織作家/随筆家

志村ふくみ(しむら・ふくみ)

染織作家、随筆家。1924年滋賀県近江八幡生まれ。1955年植物染料による染色を始める。1964年京都嵯峨に移り住む。1990年重要無形文化財保持者(人間国宝)となる。著書に『一色一生』(大佛次郎賞)『語りかける花』(エッセイストクラブ賞)、娘・洋子さんとの共著『しむらのいろ』他。



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光琳の覚悟、私たちの決意


緑色の謎


燕子花図屛風の印象をお聞かせください。


志村
はじめて見た時つよく感じたのは、青と緑とバックの金の究極の3色ですね。普通花は紫を描くと思うけど青に変えている。何か差し迫った、これ以上ないという地上世界の究極な色使い、究極なデザインで、この先には目に見えない世界があるように思います。

そう感じられる背景に、志村先生が「緑色は生命と深い関わりがある」とおっしゃっていることがあるのでしょうか。


志村
不思議なことですが、草木の染液から直接緑色を染めることはできません。そのかわり、藍甕(あいがめ)の中に白い糸を浸すと、最初は茶がかった色なのですが、搾り上げて、力を抜いた瞬間、空気に触れた部分から鮮やかなエメラルド・グリーンに染め上がってゆく。ところがまた瞬時にしてその色は消えて縹色(はなだいろ)が生まれる。あの瞬間の緑はどこに消えるのだろうと悩んでいた時、ゲーテの『色彩論』という本の中で「闇に最も近い青と、光に最も近い黄色が混合した時、緑という第三の色が生まれる」という言葉に出会いました。

朝日が昇る時、天地は金色の光に包まれ、宵闇が迫る時、青い幕に閉ざされる。染めも同じです。藍甕の中は闇、刈安やくちなし、きはだなどで染めた黄色の糸は光です。それが甕の中に入って、出て来たら緑です。

緑は生命そのものです。緑がなければ、この地球に生命はない。緑こそ、神が地上に生命として残した色だと思います。

写真:井上隆雄


闇があるから、光がある


光に近い黄色と、闇に近い青はあらゆる色彩の両極をなす色彩だともおっしゃっていますが。


志村
その間に無数の色が存在するのです。植物はすべての色を持っています。音楽で言えば、ドからソの間に無限に半音がある。半音の半音の半音があり、そのかすかな違いを、日本人は感受できる耳があり目があり、感覚がある。四季が実に細やかに動いている中で、感受性が養われているんです。

ゲーテは「色彩は光の行為であり、受苦である」と言っていますが、その意味するところは?


志村
光は屈折し、別離し、さまざまな色彩としてこの世に宿ります。植物から色が抽出され、媒染によって糸がいろいろに染まるのも、人間がさまざまな事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染め上げてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないでしょうか。

闇がなければ光はありません。先に闇があって光がある。そういうことを、染織を通して教えられました。


自然が喜ぶお返しの仕方


紅白梅図屛風の印象は…。


志村
これこそ向こうの世界、すべてが集約されている世界を感じます。岡田茂吉氏がおっしゃるように、夜の時代と昼の時代の大きな転換のような予言が、何かここに漂っている。美の形を通して、私たちに向かって生きとし生けるもののうねり、メッセージが来ている感じがします。

自然に人間が対する時には、自然を敬い、自然の主張を聞かなければいけない。それがあまりにも今、自然をいじくりまわして合理的に使っている。それでは人類は滅亡します。自然との共生という言葉もおこがましい。人間は自然からいただいているばかり。お返ししないと採算が合いません。

自然が喜ぶお返しとは…。


志村
たとえば、染めると色が出るでしょう。そうしたら、なんてきれいなんだろうと心から喜ぶ。それでいいんです。それを自然が喜ぶんです。そうしたら自然は復活します。

芸術作品を創ることもお返しです。芸術こそ生きる原動力です。それには手を使うこと。手は技であり、働くことです。ロダンは「働くことこそ休息である」と言った。私は機(はた)を織っている時が一番の休息です。詩人だって絵描きだって音楽家だって、みなさんだって手を使う。特別のことでも何でもない、生きることと一緒なんです。手は敏感です。私たちは豊かな感性を持っています。自分を狭い世界に閉じ込めないで、手を人のために使わないといけないですね。そういう意志を持ち続け、ある種の苦しみを受ける覚悟も必要です。紅白梅図ができるまでには、光琳のすごい覚悟があったと思います。

京都平安郷(土の聖地)・夜桜。
岡田茂吉の意志を継いで、現在も造園が行われている。