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岡田茂吉 美の構想


美によって社会をより良く創造する。明治・大正・昭和という激動の時代を生きた岡田茂吉は、美しいものによって人の情操を高め、平和で貧困のない幸福な世界をめざす「美の構想」を描きました。

岡田茂吉は大自然に潜む法則を、真理そのものであり究極の美と捉え、「芸術」と見立てました。
身を置くだけで生命力が漲る場所を創る<美の芸術>、土や種が持つ自然の力を最大限に活かした自然農法の<農業の芸術>、大自然に宿る癒しの力とわざを基にした<生命の芸術>という「3つの芸術」を編み出します。これらを日々の生活と調和した美的な習慣として積み重ね、繋いでいく。
大切にしているのは、時と場合に応じる自在な姿勢と、なにより楽しみながら続けること。様々な国や民族、宗教、文化、習慣などとも融和し、多くの人が実践できるライフスタイルとすることで、この地上に平和で健やかな理想の世界が実現することをめざしたのです。

それは、いま改めて見直されている循環型社会を先見した思想であり、時代が気づきはじめた未来のためのグローバルな価値観です。自然と共生する日本人の、繊細な美意識が息づく美しい構想。いま、心地よく響きます。

美に導かれた生涯

岡田茂吉
思想家であり宗教者である岡田茂吉は明治15年(1882年)、まだ江戸の気配が色濃く残る東京・浅草に生まれました。日本の伝統文化が成熟した粋で人情味に溢れた土地柄と、近代化に向けて目まぐるしく西洋化していく時代の気風を浴びながら育ちます。

15歳で東京藝術大学の前身に入学し、病を得て退学を余儀なくされたのちも伝統美術の研究に没頭。なかでも尾形光琳に心酔し、23歳で興した小間物屋を「光琳堂」と名付け、事業を成功させます。
40代で科学と宗教を統合した医療改革を、50代では自然農法の実験を始めて農業改革に挑みます。

60代には科学・宗教・芸術の統合の時代を迎えます。自身の体験から美による感動が深く心を耕し、霊性が高まることを確信し、箱根・熱海・京都で真善美のそろった「地上天国の模型(芸術郷)=理想社会のモデル」創造に着手。戦後復興のさなかでしたが大衆に広く美術鑑賞の機会をもたらそうと、海外流出の危機にあった優れた美術品を心血を注いで蒐集し、昭和27年(1952年)に箱根美術館を開館、一般に公開しました。
70代に入ると、若き日の夢であった尾形光琳筆・国宝「紅白梅図屏風」など数々の名品を手元にたぐり寄せ、ついには野々村仁清作・国宝「色絵藤花文茶壷」に見守られながら旅立ちました。

生涯にわたって指針としたのは大自然の法則という究極の美であり、美に導かれ、美の人生を生きたのです。



明治15年(1882年)0歳
東京浅草に生誕。父は古道具屋店主。
貧しいが家族仲のよい家に育つ

明治30年(1897年)15歳
東京美術学校(後の東京芸術大学)予備ノ課程に入学するも、
数か月後眼病にかかり中退、独学で美術を研究

明治33年(1900年)18歳
肺結核三期で医師に見放されるが、菜食療法で奇跡的に全快。
毎晩銀座通りを散歩、骨董屋を見て回り鑑識眼を養う

明治38年(1905年)23歳
小間物屋「光琳堂」を開業。事業が成功し、2年後には装身具卸商「岡田商店」を開業、ますます発展する。この頃から約10年間、痔疾、胃病、リウマチ、神経衰弱、扁桃腺炎、腸カタル、心臓弁膜症などを患う。歯痛が悪化しつづけ、人のすすめで医者通いをやめ症状が改善。痛みの原因は薬だったのではないかと疑いをもつようになる

大正2年(1913年)31歳
映画好きが興じ、映画館(永代活動写真株式会社)を経営

大正4年(1915年)33歳
「旭ダイヤモンド」を発明し、世界10か国の特許を取得。順風満帆で、本人の努力と才能が運命を決めるという信念と、唯物・無神の考えが強くなる。この頃、社会悪を正すため新聞経営を思い立ち、事業を拡大

大正8年(1919年)37歳
早産で生まれた子が死去した後、腸チフスを患っていた妻・タカが死去
太田よ志(後の二代教主)と再婚

大正9年(1920年)38歳
世界恐慌と3年後の関東大震災で事業に大打撃。なぜこれほどの苦難に襲われるのか煩悶し、信仰に入ってこの疑問を解き明かすべく「大本」に入信。鎮魂帰神法による病気治しに没頭。浄霊法確立までの試行錯誤の中で、人体に備わる浄化作用の理を研究

昭和10年(1935年)53歳
神秘体験を重ねた後、世界救世教の前身「大日本観音会」を立教
東京・上野毛の敷地に田畑をつくり、自然農法の研究を始める

昭和19年(1944年)62歳
「箱根・神仙郷」の造営を開始

昭和20年(1945年)63歳
「熱海・瑞雲郷」の造営を開始

昭和27年(1952年)70歳
「箱根美術館」が完成。「京都・平安郷」の土地を購入

昭和28年(1953年)71歳
アメリカ布教を開始

昭和29年(1954年)72歳
尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(現在は国宝)を入手。
この他にも海外流出の危機にあった数々の名品を入手

昭和30年(1955年)73歳
野々村仁清作「色絵藤花文茶壺」(国宝)を入手
2日後庭に咲く白梅が薫る中、昇天